2011年7月18日月曜日

2011年7月18日 明日は移動日

最近、更新を怠っておりました。ホテルのネットが遅くてストレスで。

UCANS-IIが終わった後やってた事をまとめると、

インディアナ大学に席をもらった。(もう返したけど)

PSさんとインディアナでの過ごし方について意見交換をする。予定している実験の試料のリストを渡したので、帰ってきたときには試料があるだろう。日本から改めて確認しなくては。また、秋に4人で講義を持ち回す事になったので、その準備も始めなくては。

論文の修正にいそしんだ。そして、今日再投稿までたどり着いた。結構バージョンアップできたと思うので、これでアクセプトされる事を期待。

ZY君の論文原稿の修正。これも、最終版に近いところまできたと思う。

THさんの申請書についてコメントをする。

TKさんとの共同研究の件で、解析を進め、議論を深めた。

などなど。TKさんとの研究の解析はもう少しやらなくてはならない事もわかったので、日本に行く飛行機の中で検討しよう。飛行機の中でもやる事がいろいろあるかも。

丁度日本は台風6号がきていますので、僕たちの飛行機が無事着陸するかどうか。まぁ、なんとかなると信じて。

2011年7月17日日曜日

2011年7月17日 A team that is now on top of the world.

New York Timesの締めくくりの言葉です。日本女子、本当によくがんばってくれました。おめでとう!

2011年7月9日土曜日

2011年7月9日 The Exotic Feline Rescue Center

ブルーミントンから西に約50分。Exotic Feline Rescue Centerという場所がありまして。

そこには、助け出されたcatがたくさん収容されているのです。クーガー、ピューマ、虎、ライオン、ボブキャットなどなどなど。猫だらけ。だけど大きいのです。彼らの生い立ちを聞くと、サーカスに飼われていて10年間太陽を見ていなかったらしいのとか、人に飼われていたのだけど大きくなりすぎたからレスキューセンターに送られたとか、とにかく何らかの所以により救出されて余生をそこで過ごしているのである。中には、別のレスキューセンターにいったん収容されたものの、そこでも不幸な生活に追いやられてしまったので、新天地を求めて現在のセンターにいるのとか。本当に近くでライオンや虎を見れるので、それはそれは貴重な経験をすることができました。

しかし、ずっと、人間のエゴに対する怒りだけは脳中を占めており、何故人間はそんな身勝手なことをするのだろうかと考えてしまう。アメリカにはこのようなセンターが他にもある訳で、「飼ってみたいから」「小さいときはかわいいから」とか、そんな理由で将来のことを考えず行動することには憤りを感じる。

その後、McCormic Creek State Parkに行き、昼食、ハイキングなどなど子供たちと時間を過ごした。

2011年7月8日金曜日

2011年7月8日 UCANS-II最終日

午前中で研究会は終了だった。
RIKENのcompact中性子源の話など、サイエンスへの拡張の話が中心だった。その中で、SESANSの理論的な解釈の話が面白かった。通常の散乱ではなかなか区別が難しい、相互作用の性質の問題や形状の問題などがSESANSを使うと直接的に見えてくる、という話で、それが事実ならとても有用な装置であると言える。それを確認すべく、一つアイディアが浮かんだので、RPさんに相談してみた。これまで考えてみなかったけど、できそうだね、ということで、9月以降に試してみることになった。楽しみである。

午後は、論文修正について検討した。再解析をしているのだが、どうやらあまり芳しい進展が見られなさそうだ、ということがわかった。という訳で、その旨の回答と、その他に指摘されていることについてうまく考えればいいのだろう、と思われる。

また、OYさんの論文がアクセプトになった、と昨日連絡があった。

2011年7月7日木曜日

2011年7月7日 UCANS-II二日目

今日は昨日程楽しめなかった。

2011年7月6日水曜日

2011年7月6日 UCANS-II一日目

今日から本格的な会議。この会議は、小型の中性子源を作りましょう、という考えに賛同する、あるいは既に稼働している大学などの人たちが集まって小型中性子源の現状と将来について考える、というものである。Indiana大学にはLow Energy Neutron Sourceという陽子加速器をベーストした線源があり、今回のホストである。僕も一応インディアナのメンバーということで参加には何の支障もなかった。参加者は、アメリカ、イタリア、韓国、スペイン、中国、ドイツ、日本などからきている。これまで大型施設で働いてきたので小型の線源についてはあまりよく知らなかったのだが、今日一日朝から夕方までみっちりと話を聞いたらいろいろと勉強になった。それに、日本から参加されているKHさんが隣に座っていたので講演終了後すかさず日本語での解説も聞けてよりよくわかった。

明日以降もまだこの手の話が続く。久しぶりに装置、それも線源にまつわる話が聞けて楽しい時間を過ごしている。

2011年7月5日 UCANS-II

今日からUCANS-II(The Union for Compact Accelerator-Driven Neutron Source)が始まる。子供たちはサマーキャンプへ出かける。UCANSは夕方からreceptionだけ。ということで、日中は久しぶりに原稿修正などデスクワークにいそしんだ。

夕方Indiana大学のIndiana Memorial Unionで行われたreceptionに行ってみる。日本からも北大や理研を中心に10人程度参加されていて、久しぶりに日本の情報などを伺った。

2011年7月5日火曜日

2011年7月4日 独立記念日 in Indiana

今日はアメリカ独立記念日。

朝から仕事。最近進んでいない仕事があるのでとにかく集中して仕事。でも、子供たちは部屋で集中して何かを続けるのはとても難しい。とにかく、原稿の修正を行い、ホテルのフロントに頼んでプリントしてもらったところであきらめて、午後はプールで遊ぶ。

夕方6時過ぎから花火会場へ。4時間近く待ってようやく花火が始まる。アメリカで今まで見た中では最も花火らしい花火だった。

2011年7月3日日曜日

2011年7月3日 Bluespring caverns

午前中は、知的作業をすることにして、みんなでそれぞれお勉強。

午後、さすがに子供たちがやかましくなってきたので、どこかでかけられるところを探す。30-40分程度の位置にまたしても洞窟を発見。ボートライドができるらしい、ということで、プールに入りたいとか言い続けてる子供たちを車に詰め込んで行ってみた。

こじんまりとした小屋がその入り口であった。Bluespring cavernsという名のこの洞窟は、その昔、といっても40数年前までは湖の底に眠っていた。ある年洪水が発生し、一夜にして、湖の水がなくなった。そしてそこにはぽっかりと洞窟が顔を現していたのだそうだ。

洞窟に入ると、ここもひんやりしていて気持ちいい。すぐに水面が見え、ボートが浮かんでいる。ボートに乗り込み1時間ほどのボートライド。洞窟の中をガイドが案内してくれるのだが、南部訛が強すぎて半分くらいしかわからなかった。洪水によって作られた洞窟だけど、カルスト地らしく、鍾乳石が成長していた。洞窟内で電気を消しての完全な暗闇や電気とともに音も消した完全なる静けさも体感させてくれた。

ブルーミントンから1時間足らずのこの場所はもしブルーミントンに訪れたなら、一度行ってみてもいいところかもしれない。

夜、花火が計画されているので出かけたのだが、途中でものすごい雲と雷が見えたので急遽引き返す。ホテルに戻ったら土砂降りとなった。行かなくてよかった。

2011年7月2日土曜日

2011年7月2日 Lincoln Boyhood National Memorial Park

今週末は、Independence Day (7/4)を祝う週末で、3連休。さて、何をしましょうか。

ブルーミントンから車で2時間ほどの場所に、Lincoln Cityという町があり、ここに、Lincoln Boyhood National Memorial Parkがある。Lincolnとは言わずと知れた、アメリカ16代大統領Abraham Lincolnのことである。子供たちが学校でよく習ってくる大統領の一人である。

1809年にKentuckyで生まれたAbrahamは1816年にIndianaに移住する。1830年までの14年間、7歳から21歳の期間をIndianaで過ごしたのだそうだ。このnational parkはその土地に作られたものである。Lime Stoneで作られた奇麗なvisitor centor、Abrahamの母Nancyとその他Indianaのpioneerを祀ったPioneer Cemetery、遊歩道、Abrahamの時代を再現したFarmなどからなり、Abrahamの幼年期を考えるによい場所である。Visitor centerでは30分おきに映画が上映され、AbrahamがIndianaで過ごした期間の歴史的背景が説明される。母Nancyは賢くて優しい母であったのだが、White snake-root plantと言う有害な草を食んだ牛から採取された牛乳を飲み、帰らぬ人となる。この頃の人々はmilk sicknessと呼んだそうだ。その後、父ThomasはKentuckyから新たな妻Saryをめとり、小さな小屋に8人での生活を送ることとなる。Saryには3人の子があり、Abrahamと姉のSarah、いとことの共同生活ということになる。Abrahamはこの地で、父の手伝いをすることで農夫、あるいは大工としての能力を身につける。青年になったAbrahamはOhio riverを往来する船に乗り遅れた人を運ぶことで重要な生活の糧を得ていたらしい。Ohio riverの渡し船を経営する陣営からこれをねたまれ訴訟を起こされる。その法廷でAbrahamは「自分は渡し船などしていない。川の真ん中まで船をこぎだしただけだ」と主張し、これが認められたのだそうだ。若い頃から知的な一面とユーモアを持った人物であったらしい。彼は本を読むのが好きで、その当時高価であった本、身の回りで目にすることのできた本はすべて呼んだのだそうだ。George Washingtonの伝記を読んで感動したりしたそうだ。さらに、初めて訪れたNew Orleansで奴隷売買を目の当たりにし、人類の平等を考えさせられるきっかけとなったのもこの頃のことだそうだ。その後、1830年にIllinoiに移住し、1861年に大統領となりWashington DCに移ることとなる。1865年の4月に暗殺されるまで大統領としてリーダーシップを発揮したとのこと。そのリーダーシップはこの頃のパイオニア精神が大きく関わった、という説明であった。

日本でもAbraham Lincolnのことは学ぶし、伝記も読んだはずだ。でも、このような土地でその人の生い立ちを目の当たりにすることによる新鮮な感覚は、何か代え難い示唆を与えてくれるような気がする。貧乏な家庭で育ったAbrahamがアメリカの大統領として1800年代に大統領足り得たことを考えると、日本の貴族制度や将軍の世襲制、ひいては現在の政府のていたらくと鑑みても重要な歴史的事実と考えることができるのではないか。リーダーシップとはパイオニア精神の現れであり、研究者として活動する自分もパイオニア足り得たいと思いを新たにするのであった。また、これを見た子供たちが何かを感じてくれていたらそれもまた何者にも代え難い。

夕方は近くの大学キャンパスで行われた花火大会を見物に行く。153発までは間延びした花火であった。その後連射があり、それでおしまい。やっぱり日本の花火が懐かしい。

2011年7月1日金曜日

2011年7月1日 移動日

昨日の計算が間違っていたことに気がつき、目が覚める。起き抜けに修正し、PBさんに送信し直した。単に、単位を間違えていただけなので本質的には問題がないのだが。で、テネシーからインディアナに移動するので、途中に何か面白そうなものがないか探し、洞窟を見つけたので、必要な時間を計算し、早速全員を起こし、朝食、チェックアウトを済ませ、出かけようとした。家内が一カ所電話して支払いについて確認してくれ、というので、電話して詳細を聞いてみた。請求額が思っていたより高かったのだが、それはearly termination feeつまり、契約の早期解除によって発生するとのこと。契約期間は2年、ということなのだが、そんなことは聞いていなかった(契約していたのはおよそ半年だが、半年前には家を変わることはわかっていた)ので、その旨伝える。しばらくやり取りした後、160ドルくらい請求されていたものが、4.12ドル、ということになった。不思議。

とにかく、ホテルを後にし、ケンタッキーを目指す。目的地は、Mammoth Caveである。この洞窟は、なんと530km以上にわたって洞窟がつながっているそうで、世界一の長さを誇るのだそうだ。世界遺産にも指定されているとのこと。ちょっと遠回りすれば見れるので、行かない手はない。4時間ほどのドライブで到着。

本当は、Frozen Niagaraとかいうツアーに参加したかったのだが、チケットは売り切れ。その他のツアーは時間的にあわなかったりした。係の人がdiscovery tourなら無料で洞窟に入れるよ、というので、それに行くことにした。アメリカではこれまでもいくつか洞窟に入ってきたのだが、洞窟特有のひんやりとした感覚に出会うことはまだなく、ここもそんなもんだろう、と高をくくっていた。ところが、洞窟入り口に近づくにつれてひんやりとした空気が。これは期待できるぞと、中に入ってみると、かなりひんやりと気持ちいい。

この洞窟は、4000年ほど前にネイティブアメリカンが発見し利用していた痕跡が発見されているとのことで、古くからこの地域では知られている。掲示によると、325億年前Late Misissippian Periodには北アメリカ大陸のケンタッキー州のあたりは南緯10度程度に位置していたらしい。ancient Missouri river(だっけ?)が石灰岩や粘土層を削り、このような洞窟が形成されたとのこと。日本でおなじみの鍾乳洞のように上からしみ込んだ水によって削られた訳ではないので、鍾乳石などは見かけられない(場所によってはあるらしい)が、石灰岩、この辺りではLime Stoneと呼ばれる岩、が広く削り取られ地底都市建設もできそうな空間が広がっていた。なかなか見応えのある洞窟で、1時間程度の散策では物足りなかった。移動の途中ということでこれであきらめたが、また訪ねるべき場所と思う。なかなかよい経験であった。

Lime Stoneという岩はインディアナで特産と聞いていたのだが、どうやらケンタッキーからインディアナに至る広い地域で産出されるもののようで、この岩を使って作られた家は、ベージュ系(?)の色合いできれいだ。

2011年6月30日 実験終了

ビームは午後4時まで出るのだが、装置は今はまだ建設中の段階なので調整を行いたいということで我々の実験は午前8時に終了。

午前中は、PBさんとAHさんと議論。論文の内容でPBさんからいろいろ突っ込まれる。間違ってはいないのだが、曖昧だという点を指摘され、納得してしまう。もう一度考え直した結果、よりしっかりした解釈にたどり着く。やっぱり人と議論することは大切なことだ。それをもとにもう一度計算を行ったところ、結構きれいになった。夕方PBさんに計算結果を送る。

午後はMOさんのオフィスで実験データの解析。データのばらつきが大きくて悩む。MSさんも交えてデータ解析について確認。結局バックグラウンド補正のプログラムがうまく働いていないのではないか?という結論に。バックグラウンド補正前のデータを持ち帰ることにする。彼らがプログラムを書き直してうまく計算できたら新しいデータを送ってくれることになった。もしかすると、パルス故の未解決問題をはらんでいる可能性があるのではないか、という気がする。解析ソフトはユーリッヒスタイルを踏襲していた。0からの構築ということでいろいろ試行錯誤があったようであるが、ここまでできるようになったのは努力の結果であろう。まだバグフィックスしながらの運用だけど、かなり実用に堪えつつある。AFさんが先日実験をしてデータを持ち帰り、デーブでの読み込みをしようとしている、ということなので多分、そちらも利用できるようになるのだろう。

AHさんは4時頃帰宅の途に。その後、MOさんとPBさんと今後のスケジュールの話をする。結果9月の初旬に再度ビームタイムをくれることになった。前半は日本、後半はインディアナにいる予定の僕は、日本からはスカイプ参加。アメリカに戻った後、もし実験状況が僕がいないとどうもならないなら、行かないと行けないのかも?もっとも、そんな状況はほぼないと思うけど。

今回の実験の感想を列挙すると、
線源は不調であった。
試料が今まで知らなかった振る舞いをする可能性があることに気がついた。
装置の強度は、普段使っているものとそんなに変わらない(800kW程度)。少なくとも全体の測定時間はあまり変わらない。今の最高出力になると若干こちらの方が強いということになる。線源強度に応じて今後まだ強くなり得る。
建設中の装置だが、随分使えるようになっており、まだいろいろ調整や修正が必要だろうが、一年後にはかなりなじんでいるのではないか、という印象を受けた。また使いにこよう。
パルスなりの測定の難しさがあるように感じた。測定の経験を積む必要がありそうだ。
データは使えるようになるであろう。初めてのパルス実験でいろいろ試みてみたが7割程度は成功、としてよいのではないかと思う。

晩ご飯はOutbackでマヒマヒを頼む。塩辛くて、家族で少しずつ分ける程度でちょうど良かった。肉はおいしかった。

研究所のホームページに、OYさん、MKさん、ANさんの写真が掲載されていた。かっこいいよ!日本の装置が動かないことに対するアメリカ側の計らいもあった実験なので彼らの感想が注目されたのであろう。コメントも掲載されていた。興味のある方は是非そちらも参照ください。それにしても、MKさんは以前もホームページに写真が掲載されていた。注目の実験研究者といえる。

2011年6月30日木曜日

2011年6月29日 熊と査読結果と

実験の方はそれなりに順調に動いているので今日は家族サービスと決めた。

Great Smoky Mountainというのはこの辺りで有名な国立公園で、滞在地から1時間少々でいける距離なので行ってきた。基本的にはただの山なのであるが、アメリカ生活では山に遭遇するのも珍しい、というケースもあり人気のスポットである。ちょうどアパラチア山脈の南部分にあたる(北はメリーランド辺りまで連なるが、普段の生活エリアからは少し距離がある)。平日であるにもかかわらず大変多くの人出であった。ガトリンブルグとかピジョンフォージという名所スポットとなっている町があるのだが、そちらは車も多かろう、ということでタウンゼントから山に入ることにした。途中の道は空いていたのでよかった。山に入ってすぐに川に立ち寄ると、ちょうどそこにいたおじさんが、子供たちに使わしてやっていいよと大きな浮き輪を貸してくれた。予期せず川遊び。その後ちょっとしたラフティングまでできて子供たちは楽しそうにしていた。さらに山に入り、車でドライブしながら適当に停まっては景色を眺めたり散歩したり。鹿や七面鳥は期待通り見えたのだが、熊はさすがにあきらめていた。熊を見やすいのは朝10時までか午後5時以降(長男がパンフレットを読んで教えてくれた)とのことで無理だろうと高をくくっていた訳だ。が、たまたま子供たち三人と歩いていたら熊発見。パークレンジャーが自転車で駆けつけて「ルールを知ってるか?熊からの距離は50ヤード(およそ45m)以上だから、もう少し下がってくれ。」といわれる。次男が母を呼びに行き、ぎりぎりで全員野生の熊をみることができた。その後他の観光客がきたのだが、そのときには薮に隠れて見えなくなっていた。野生の熊などみたのは初めてだったのでよい経験であった。この国立公園、日本から実験でこの辺りに出張したときにも訪れたことがある。そのときは、「うーん、山だね」という感想だったのだが、アメリカ暮らしが長くなってきて山の風情がわからなくなっているからだろう、かなり新鮮で人気のスポットである理由が少しわかった気がする。

ホテルに戻り、メールの整理。5月初頭に投稿していた論文の査読結果がかえってきた。結果は、修正せよ、ということであるが、再解析(新しい解析を試せ)すれば良さそうな感じなので、がんばって修正しよう。実験の方は順調に進んでいるようで、明日の朝で終了となる。その後共同研究者と議論し、明日の予定などを確認。夕食はFlat Water Grillで。川縁の店なので、外を選んだのだが、ハエが多くて落ち着いて食べられなかった。次回からは店内を選ぶことにしよう。ここの滞在も後二晩を残すのみとなり、その後はインディアナだ。

2011年6月28日火曜日

2011年6月28日 線源復活

昨夜からおいていた試料の様子を見ると、どうやら、低温のデータは使えるのではないか、という淡い期待が得られた。

午前中はMOさんと新しい試料のデータをチェック。以前測定している似た系のデータとの整合性は良さそうで、どうやらきちんと測定出来ている模様。測定時間に関してはいつも使っている装置とそんなに変わらない。質の良いデータであればよいのだが、エラーがどのくらいとかまではきちんとプロット出来ない。

午後、試料が分離していないかどうかを念のため確認する為に試料を取り出す。すると、試料の温調をする為の水が試料層に漏れている事が判明。急遽測定を停めて原因追及と再発防止策を練る。数時間ロスし、かつ温度調整にかかる時間が大幅に増えた。夕方測定を再開して終了。

夕食はPBさん、AHさんと一緒にTaste of ThaiというKnoxvilleにあるレストランで。美味しかった。

夜メールをチェックしてみたら、またしても線源が数時間とまるという。色々複雑な機械なので、完璧に運用するのは難しいようだ。それにしても、終わりが見えて来た今思うのは、今回は線源の不安定さと、試料に泣かされた。それでも少しはデータが取れている様なので、なんとかそれを形にするしかない。

2011年6月27日 線源交換

朝から昨日の続きでどこまでデータが使えるのかMOさんと議論。データを細かくチェックしながら見てみたが、どうやら最初から分離していたのか?という結論にいたる。でも、試料を入れたときは大丈夫だったのに。。。

そうこうしていたら、イオン源を交換するということになり、中性子供給が停止。その間に、取り出した試料を再度測定すべく持ち出し許可を得ようとしたが、計算上非常に小さいながらも放射線を出しているという事で持ち出せず。でも、線量を測定してみても有意な線量は検出出来ない。ルールが現実を凌駕する最悪のシナリオ。結局試料を僕たちが触る事は出来ず、研究所の人の手助けが必要との事。試料を触れる人を捜して来て、その人に色々やってもらうのだが、放射性物質として扱う為思う様な作業が出来ない。

夕方、ZY君と昔のデータについて論文化についての議論。その後、晩ご飯にすしを食べに行った。以前行ったときはそれなりに美味しかったのに、味が落ちていた。残念。

2011年6月26日 相分離

朝から研究所へ。論文の議論は出来ず。そのかわり、GBさんとの共同研究についてコメントを送信した。

実験は、線源が不安定なので思う様に行かず。。でも、こればっかりは仕方がない。

データを見てみる事にする。MOさんがreductionしてくれて、データを見てみたが、以前に別の装置で測定したデータと少し違う。。。MOさんは解析ソフトの問題ではないか、というが、果たして?

午後はAHさんが次の試料の準備をしつつ、僕はハイライトの構想を練りながら、図を作りはじめた。夕方から次の試料の測定、と思ったが、最初の試料を取り出してみたら相分離していた。何故だか理解不能。その後どうしてそうなったのか考えながら、データも見てみたが、どこまでデータが使えるのか分からず仕舞。結論を明日に持ち越す。

遅くなったので、夕食はサブウェイ。

2011年6月25日土曜日

2011年6月25日 洞窟

今日は研究所に行く必要がないので、家族と一緒に洞窟に出かけた。Lost Seaという名の洞窟で、1700年代(?)から発見されて、地元の人達の遊び場になっていたらしい。一時は洞窟内にBARもあったらしいのだが、地下で飲むと気圧の関係で通常の倍程度飲めるらしい。でも、地上に上がる際に、酔っぱらい状態がひどくなり、階段で転んだりする事が多くて廃止されたとか。1900年代の初頭に、地下に湖がある事を12歳の少年が発見したらしい。しかし、その後開発は進まず、結局その発見者が75歳になった頃、ようやく地底湖の存在が世に出て商売になって行ったとか。その発見者は77歳で亡くなったそうで、あまりうまみを見る事が出来なかったそうな。今でもその血縁者が洞窟を訪れるそうなのだが、入場料が$2offなのだそうだ。

地底湖は曰くアメリカ最大との事。それにしてはなんだか発見者にとってうまみの少ない話の様な気がする。きっと商売を始めた時に権利を買い取るとかなんとかで莫大なお金が発生したのだろう、とか考えていた。地底湖にはrainbow troutが生息していてアトラクションと化している。尤も、元々生息していた訳ではなくて40年程前に放したのだそうだ。今では若干目が退化し始めているとか。地底湖で群れをなす魚を見るのはなかなか出来ない経験で割と面白かった。水はおよそ98%のpure waterだそうで、カルシウム等のミネラルが溶けているとの事。だから、lost "sea"なのであって、lost "lake"ではないのだろうが、テネシーの内陸なので、"sea"という響きに若干違和感を感じるのは僕だけだろうか。

夕方ホテルに戻りホテルのプールで子供と戯れる。AHさんが途中から参加して子供達はとても楽しそうだった。夕食はOlive GardenでAHさんと家族と一緒に食べた。明日は論文の打ち合わせと今後の実験のスケジューリング、それから本題のデータチェックである。

2011年6月24日 見学

午前中は、洗濯をしながらGBさんとの共同研究のコメントを考える。

お昼をFlat Water GrillとかいうレストランでOYさんのグループとKさんのグループと一緒に食べた。

午後研究所に出向き、MMさんを訪ねる。施設見学をさせてもらい、その後ユーザールームでコメントを書き始める。

夕方からMMさんのお宅にお邪魔になり、奥様の手料理を頂く。

実験の方は線源の不安定な状態が続き、結局、測定時間がどんどん長くなる。夜MOさんから電話があり、日曜日の夕方まで測定がかかるとのこと。PBさんとAHさんに連絡して終了。なかなか結果が見られなくて少々ストレスになりつつある。

2011年6月24日金曜日

2011年6月23日 不安定な線源

今日からいよいよ試料の測定。朝からでかけてみると、線源の強度が徐々に下がり続けている模様。理由は不明らしい。イオン線源を交換したばかりなので、それがまだ不調なのかな?と勝手に想像。MOさん、TKさん、PBさん、AHさんと一緒に今後のスケジュール等の打ち合わせを行い、昼食後試料交換。打ち合わせでは温度変化が自動では難しいかも、という事だったが、Nさんの頑張りで制御可能になりました。打ち合わせ後に控え室に戻る時JBさんに偶然遭遇。お元気そうで何よりでした。昼食時にはCさんに久しぶりに会い、韓国の事とか少し話しを聞きました。カフェテリアに行くといろんな人が居る。午後試料の測定を開始するも、線源強度がまだ下がり続けるので測定時間の設定に苦しむ。ここの装置はまだモニターでの測定が出来ず、時間によるセッティングなのでこの辺りはそのうちに修正されるだろう。見た目のデータはきちんとしたエコーが出ているのだが、最終結果を見てみないと何とも分からない。規格化が少しうまくいっていない所があるのかも?とMOさんが言うし、試料の結果を見て今後の実験スケジュールにも反映させる予定。

夕方ZYさんやMMさんに連絡をして会う算段をしていたら、PBさんとAHさんと今後のスケジュールについての議論となりました。結局今日はMMさんともZYさんとも会えなかったが、滞在中に会えそうという事で一安心。その際、MOさんが来て次の実験の可能性について日程を提示してもらった。僕はその頃日本に居る予定なので、日本からのskype参加が濃厚で、後はPBさんAHさんのスケジュール次第、と言うところ。

夕食はMagic Workとかいう中華屋さん。日替わり定食?のような一種類しか(?)メニューがないこじんまりしたお店だったけど、安いしそこそこ美味しかったので僕は満足。このお店、今ちょうど日本から来ているMKさんに家内が教えてもらったらしい。AHさんもLPさんらとそこに行ったという話をしていて(場所や名前は不明だったが)、ちょうど同じ店の話しをしていたようでAHさんも満足だった。ホテルからも近いし、何より安さが魅力。

ところで、車。僕は二台所有しているのですが、今回の冒険には一台を利用しています。もう一台は知り合いに乗ってもらっていて、保険だけドライバーの追加をしています。ドライバーを追加するのに保険料金が発生するのだが、思っていたより安かったのでよかった。

2011年6月22日 ダウン

午後試料交換の予定だったので、午前中は子供達を連れてサイエンスミュージアムへ行ってみました。小さなミュージアムでしたが子供達はそれなりに楽しんだ様。その際、MOさんから電話があり、線源がダウンしているということで、昼食にメキシカンを食べました。どうやらイオン線源の交換が必要だったらしい。ビーム復活後、バックグラウンド測定を終わらせてから次の測定にかかるという事で夜中に出勤。その後分解能の続きを測定にかけました。なんか、ビーム強度が下がり気味なのが気になります。夕食はKnoxvilleのOliveとかいうイタリアンで。皆満足。

2011年6月21日 実験二日目

今日は火曜日という事で線源の調整があるとかで8時から午後4時までビームが出ません。という事で、午前中は家族がホテルのプールで遊んでいるのを見ながらGBさんとの共同研究の件で資料を読んで検討を行ってみました。午後、出かけてみると、昨夜に装置の問題で測定が途中で止まっていたらしく、予定していた測定の半分程しか分解能の測定が出来ていませんでした。あらら。

午後は試料調整をして夕方からその強度チェックをして、バックグラウンドの測定をかけてホテルに戻りました。強度に関しては自分とこの装置で測定するよりは数割強いようだ、と言う印象。データの質を見てみないとまだ良く分からないけど。

2011年6月22日水曜日

2011年6月20日 実験初日

今日から実験です。まずは、放射線取り扱いのトレーニングを受けてから装置責任者と実験の打ち合わせに。

今回は試料環境が完成していないということで、自分達の試料環境を持ち込む予定でした。でも、話してみると、それなりのものが用意できているようで、ドイツ等でよく利用している石英セルが使えるとの事。温度範囲も問題なさそうなので、それを使ってみる事にする。パルスなので、測定条件の決め方とかちょっと頭を使わなくてはならないかと思っていたが、そうでもなくて、測定の仕方としては原子炉の場合と同じような考え方でよさそうだ。測定条件を決めたものの、装置の立ち上げが思ったように行かず、分解能の測定を開始したのが夜になってしまった。

ここの分解能標準試料はGrafoilで、日本で使っていた物だった。アメリカに来てからはCarbon Powderを使っているので、非常に懐かしい思いでGrafoilを眺めた。

装置責任者のMOさんと話をしていると、大きな勘違いに気がついた。僕はここの装置を"monster"と称していたのだが、当然、positiveな意味で使っていた。でも、どうやら、negativeなイメージで聞いていたらしく、PBさんやAHさんを交えた話でようやく話が伝わった。それにしても1年以上勘違いされていたと思うと、よくビームタイムをくれたものだと思った。

夜飯は家族と別で、Panera Breadに行ったら閉まってたのでRuby Tuesdayでトラウトのグリルを食べた。

2011年6月19日 冒険スタート

しばらくの間、ブログを書く事をやめていました。でも、さすがに、いろいろな出来事があるかもしれないので、しばらく書いてみる事にします。

冒険のスタート。

というのは、半年ほどメリーランドを離れてインディアナ中心の生活を送る事にしたのです。

まずは、メリーランドのレントハウスを大家に返して、テネシーに向けて出発です。テネシーは某研究所で実験です。今回はパルス中性子を使ったスピンエコーを初めて使ってみます。PBさんとAHさんと一緒の実験です。皆とは現地で集合します。冒険ということで、家族も一緒なので、みんなで車に乗って移動しました。

およそ8時間ほどで到着。

ノックスビルのCahoun's restaurantで食べました。久しぶりにRibを食べましたが、子供達にはあまり評判が良くなかったようで。